2008.5.27
【奈良県】
巻向(纒向)(まきむく)(Map)
何だかテレビの「タモリ倶楽部」のようなタイトルになっています。
特に古墳好きでもないのにこのを訪れたいと思ったのは、卑弥呼の墓ではないかと現在最も熱い視線を浴びている「箸墓(はしはか)古墳」を見ておきたい、その一念からです。
知識も無いんだから見たって分かりゃしないとは思うものの、何か感じるかも知れないと……
以前、この巻向駅の乗降客が多いと感じたのは、きっとここを目指していたんだと思われます。
山の辺の道が近くにあることからも、ご想像通りの田園風景が広がっています。
右写真は「纒向(まきむく)石塚古墳:纒向古墳群では最古の古墳の可能性がある。古墳時代前期初頭(3世紀中頃)の見解も。また、前方後円墳成立期の古墳として注目されている(桜井市HPより)」(古くは巻向を纒向と書いたそう)で、古墳らしい丘に見えませんか?
──発掘調査もしたわけですから見てくれは後からの演出なのでしょうか。
3枚組上写真は「勝山古墳:纒向型前方後円墳の一つで、箸墓古墳より古い古墳になる可能性も指摘されている(桜井市HPより)」で、池は再現されたようです。
3枚組中写真は「矢塚古墳:現状では円墳に見えるが、前方後円墳の可能性もある(桜井市HPより)」で、畑と学校に囲まれています。
3枚組下写真の「東田(ひがいだ)大塚古墳:形は帆立貝式とも考えられるが不明(桜井市HPより)」は、古墳の上にも作物が植えられていて、生け花の鉢のような様相です。
と、駆け足で4つの古墳を紹介しましたが、どこも確かなことは分かっていないというのが現状のようです。
で、本日のメインであります「箸墓古墳」(下写真)です。
中央の谷部分の右側が前方後円墳の「前方」にあたり、左側が「後円」になります。
卑弥呼の没年は248年頃とされており、最近の調査により古墳の築造時期もその頃とする結果が得られているそうです。
しかしそのより所とされるものは「その時代にこの規模の古墳ならば国王クラス」「各地にここの形式を模した古墳が点在する」「他の地方から伝わったと見られる土器が発掘された」などの状況証拠しかないようで、文献資料としても「後円部の規模が『魏志倭人伝』にある「百余歩」(約150m)」に近い、というものだそうです。
国の調査により(中をひそかに調べたのだろうか?)現在ここは第七代孝霊天皇の皇女、倭迹迹日百襲姫命大市墓(やまとととひももそひめのみことおおいちのはか)として管理されています(倭迹迹日百襲姫命は『日本書紀』で、崇神天皇の祖父孝元天皇の姉妹とされる)。
よくぞ調べて特定した(?)ものだと感心と言うか、呆れ気味です……
右写真はその宮内庁の施設(前方の底辺部分にあります)。
まあ、真偽についてはともかく(この表現だけでもお叱りを受けそう)、戦時中は前述の石塚古墳の頂上を削って砲台を作ったと聞きますから、そういうバカげたことから古墳を守るためであれば、未来への投資と研究を続けていただきたいと思います。
上写真右側が三輪山(Map)で、山の辺の道がふもとを通り、日本最古の神社と称される大神神社(おおみわじんじゃ)がある地域になります。三輪山を拝む古神道(原始神道)の形態を残し自然崇拝のアニミズム的な特徴があるので、その歴史は縄文・弥生時代までさかのぼると考えられているそうです。
そんな点を踏まえて「太陽の道:北緯34度32分のライン」の説が唱えられているとすれば、府に落ちる部分はあると思います(この付近もその線上近くにあるそうです)。
古代の人々は、そんな天体を元にした「まつりごと」を行っていたようですが、時代にとらわれず純粋であろうとした故に、ここ大和や奈良は、近畿だけではなく日本というくくりでの「まつりごと」が必要とされた時の政府から、徐々に切り離されていったのではないでしょうか。
そして、神話に不可欠である伊勢だけをうまく取り込んで、大きな国の民の心をまとめる支柱として育てていったのではないか、とも思われます。
──これはまるっきりわたしの勝手な考えです。
そんな話しはどうあれ、たしかにここの纒向古墳群も三輪山を意識して築造されているように思われます(上下写真2枚はホケノ山古墳にて)。
ここホケノ山古墳から奈良盆地を望んだ時の気持ちというのは、ちょっと他の場所では感じることのできない印象がありました。
確かに、平安京遷都(京都:794年)から150年前に飛鳥(板蓋宮:いたぶきのみや)での大化の改新(645年)があり、またそこから数百年さかのぼった古墳時代(卑弥呼没248年頃)の遺跡になるわけですから、ここからの景色を眺めている時、自分自身の意識のタイムスケールが確実に変わっていることに気付かされます。
とても手などは届かない時間を隔てた文化であり、自分のルーツでは無いとしても、大和もしくは邪馬台国(かも知れない)と言われる場所で生活していた市井の人への思いをはせてしまいます。
彼らも同じ山々や、田園風景を眺めていたのだろうか。そこに何を感じて、何を考えていたのだろうか?
そこにはもしかしたら卑弥呼も含まれていたかも知れません。
触れたりできる実感もまるで無いのですが、そんな「もやもや」とした気持ちで景色を眺めながら、何かこの場所での印象なり考えたことなどを残したいと思うのですが、結局何一つまとまるものはありませんでした。
あまりにも遙か過ぎて、手がかりにできるものが無く、開いたままの心を閉じるきっかけをつかむことができません。
そこまで「もやもや」したままだと、この土地とはまるで関係なく自身と対峙(たいじ)し始めてしまいます。(下写真箸墓古墳)
京都では「瞑想ができる」などと申しておりましたが、奈良では自身の「探求ができる」のかも知れないと思いましたが、しかし接点が何もありません。
知識としては教科書から学んだものだけで、そこに書かれていなかった事象への関心の発展方法がどうも浮かんできません。
これで奈良は5回目の訪問になりますが、どうも「もやもや」したものはそのまま霧散していきそうです。
──きっと、短歌などを好きになったりできないことが敗因かも知れません(だって貴族好きじゃありませんから!)。
この土地は、刺激などを「外に発する」のではなく、他から押し寄せてきたものを受け止め「昇華」させるような土壌が広がっているのではないか、と思われます。
上写真は天理にある天理教関連施設で、以前JR桜井線の車窓から町並みがちょっと異様に見えたので、一度は歩いてみたいと思っていました。
町を歩いていると「法被(はっぴ)を着けぬ者は異教徒なり」と言われているようで、自身が異物であるような感覚にさせられるところです。
教義についても少し調べてみましたが「陽気ぐらし」とあり、表向きからは本質が見えてこない印象がありよく分かりませんでした。というか、関心がそこで止まりました。
市庁舎の屋根が尖っているのはおかしいだろう、と思って調べてみると、Wikipediaには
「天理市は日本では唯一の宗教名が地方自治体名になっている宗教都市である。宗教法人は非課税であるが、天理市へ特に使用目的を指図していない形で毎年寄付を行っている」
とあり、納得なんですが……
しかし、写真にもあるような煙突が町中にいくつも立っていて、それだけでも異様です。これは何のためにあるのだろうか?
大きさ的には工場もしくはゴミ焼却場程度ではないだろうか、銭湯のものよりはるかに大きいと思われます。
この件に関してはどうも腰が引けてる感じなので、この辺で……
P.S. 今回の写真は、ちょっと面白くなかったかも知れませんが、緑が多くて目には優しかったのでは? と思っております……
今週は、東京へ部屋探しに出かけるので一回休みの予定です。