2007年7月16日月曜日

考えると眠れなくなっちゃう──五新線跡、五條新町

2007.07.15
【奈良県】

 五新線跡(Map)


 五條新町に残る、五新線(ごしんせん)の跡地に残された構造物です。
 五新線とは、五條と和歌山県新宮を結ぶ路線として計画され、戦前に着工し戦争による中断を経て継続されたものの、1982年に工事が凍結された未完路線です。
 まだ道路が整備されていない時代の交通手段の確保と、奈良・和歌山の山林からの材木を運び出すことを目的に計画されたようです。
 五條から新宮へ向かう十津川街道に行かれた方はお分かりと思いますが、ずーーっと険しい山が続くのでその線路もトンネルと鉄橋ばかりと思われます(全貌は見てません)。
 現在その鉄道用に整備された敷地は、バス専用道として活用されているそうです。その様子はちょっと古いですが、映画『萌の朱雀』で触れられています(わたしはそれで知りました)。
 本当に平地のない地域で、昔は土地の面積で一律に課税されていた年貢を、嘆願して免除してもらったというくらいの厳しい土地柄です。
 そこに光が差すと思われた鉄道建設が、結局頓挫してしまうにあたっての人々の落胆は計り知れないと思われます。
 厳しいからこそ、神聖な場所として熊野古道が残されていることは、やはり行ってみないと理解できないと思います。


 下の写真は、五新線(左の道)が現在のJR和歌山線(右が線路)から分岐していたと思われる地点。
 「へぇー、だから何なの?」という、マニアックな写真ですが、この真ん中にある木は誰かが思いを込めて植えたのではないか、という気がしています……



 五條新町(Map)


 明治維新の導火線とも言われている「天誅組(てんちゅうぐみ)の変」は、五條にあった代官所襲撃から始まったそうです。
 先陣を切る者とは、どんなところでも血気盛んで目立ちたがりと決まってますが、彼らはちょっと惨めだったようです。
 天皇の行幸を待ち受けるべく、代官所を占領し天皇直轄地の宣言をした翌日に政変が起こり、彼らは逆賊とされ討ち果たされたそうです。
 紀伊半島周辺は古くから天皇とのつながりがあり、逃げ込むならこの辺りと決めていたような気もします。年貢を免除してるんだから、きっと守ってくれるとの思いもあったのでしょうか。


 ここも古い町並みが残るところなのですが、前出の今井町に比べると規模ではかないませんが、フレンドリー(自由さ)な印象があります。門徒の町ではない開放感、とでも言うのでしょうか。
 門の中がとても端正に整えられているお寺(上)や、町中にしては結構大きな酒屋(下)があったり、いい加減で歩いていて不安になるような狭い路地があったりと、散策には楽しい街だと思います(すぐ裏には大きな吉野川も流れています)。


 下の場所、わたしは「あっ、きっと何かの映画かテレビで見た気がする」と思ったのですが、思い出せずにいます。
 心当たりの方がいらしたら、ぜひご一報下さい。
 どこで見たんだろう〜、と考え出すと眠れなくなっちゃうんですよ……


 今回の奈良紀行はこれで終了です。
 来週は夏休みで、岡山〜鳥取へ行ってきますので、一週間お休みになります。
 休み明けをお楽しみに!(だから、自分だけだって)

姓・苗字のルーツ──藤原京跡、談山神社

2007.07.15
【奈良県】

 藤原京跡(Map)


 飛鳥の宮から移り、日本で最初の条坊制(南北を条で、東西を坊で仕切る碁盤の目)を布いた都城(とじょう)だそうです。
 発掘現場写真の後方(手前の低い山)の、天香具山(あまのかぐやま)の奧まで含まれたそうですから、かなり広かったようです。
 和歌に関心のない者でも、天香具山の語感は耳に残っており、その響きにロマンチックなものを感じていしまうのは何故なのでしょう?
 都の北側には耳成山、西に畝傍山(うねび)というランドマーク的な山はあるのですが、ちょっと急峻で女性が登るには難儀な山に思えます。それらの山とは違い、なだらかな丘のような天香具山には、その地形を生かした何らかのデートスポットがあって、それを口説き文句に使った歌が数多く読まれたのではないか? だなんて思ったのですが、きっと違うよね……


 藤原京と、藤原氏の名は、昔のこの土地の名前に由来するそうです。
 この都は何と遷都から16年で次の平城京に都の座を譲ったそうです。
 気まぐれにもほどがあると言うか、作らされた人間にしたらやってられないだろうなあ、と思いません?
 その後、焼失したそうです。燃やしたくなったヤツはきっといたと思いますもの……


 談山神社(たんざん)(Map)


 言い伝えによるとここ談山(かたらいやま)で、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ:ATOKで変換されません。限界?)と藤原鎌足(ふじわらのかまたり)が、大化の改新(ハイ君、それは何年?)の謀議を図ったとされています。
 そんな縁から、鎌足の死後に息子がこの地に十三重塔を建立したのが始まりだそうです。
 何と、その十三重塔が現在修復中で見ることができませんでした。ショック……(ちゃんと調べてから行こうね!)
 ──絵が見たい方はhttp://www.tanzan.or.jp/へ。
 日本の苗字の発祥は、源氏・平氏・藤原氏・橘氏及び菅原氏に集約されるとのことです。
 この神社に「藤原氏ゆかりの苗字」という印刷物があり、それには藤原氏から生まれたとされる苗字の一覧が掲載されています。
 まあ、由緒を自慢したいのでしょうが、対象を限定することは広がりをあきらめることになると思うのですが。
 ちなみに、わたしの苗字はありませんでした。


【中等日本史】のおさらいです。
 先ほど登場した中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)は、友好国の百済(朝鮮)の救済に失敗し、奈良を離れ現在の大津市付近に近江朝を開き、天智天皇となります。その子どもが大友皇子で、滋賀県「瀬田の唐橋」に登場しました。
 前回同様、今回もピンと来てませんでしたが、本を読んでイマジネーションを広げる楽しみ方だけではなく、自分の足で歩いてリンクさせていくことの醍醐味ってのも感じました。
 単なる自己満足なんですけどね……

台風去って、お日柄も良く?──橿原神宮、今井町

2007.07.15
【奈良県】

 橿原神宮(Map)


 台風が明け方に通り過ぎ(計画通り?)、大きな支障もなく行動できました。
 本日はお日柄がいいのか、泊まっていたホテルでも、ここ橿原神宮(かしはらじんぐう)でも結婚式に参加する人たちを見かけました。とにかく、雨が上がって何よりです。
 ここは神武天皇(初代)を祀るところで、何だか存在感があるように感じて気になっていたのですが、単なる大きな神宮(明治神宮より狭い)でした。
 明治23年の建立とのことなので、当時の国威発揚政策の一環なのではないでしょうか。


 今井町(Map)

 先々週の「アド街ック天国」の「懐かしい風景が残る街」で1位になったところです。
 本当見事に街全体がタイムスリップしたような町並みが残されていて、確かにこんな場所は他には見たこと無い貴重な町です。
 でもここでは、人々が普通の生活をしているわけで(観光用に保存されているわけではない)、確かに町並み保存会のようなものもあり、観光用に商売している人もいますが基本的に生活空間なわけですから、何だかあまり土足でズカズカ入り込むのは失礼な気がしてくる町でもあります。
 ここは、一向宗(本願寺派)が築いた城塞都市だそうで、周囲の堀は軍事用だったそうです(どうも一向宗=武闘派のイメージがついて回る)。その後、商業都市として繁栄して「今井札」という独自の紙幣が流通したほどだそうです。




  その中心となったのが「称念寺」(右写真)で、町の支えとなってきたお寺さんです。
 「新日本紀行 ふたたび」という番組で見たのですが、壁も傾くお寺の修復よりも町の家々の修理を優先させる住職の姿勢で、お寺はつっかえ棒だらけのボロ家になっているとのこと。そこに追い打ちで、住職さんが倒れて奥さんが住職をやっているとのこと。
 現在は、工事のメドが立ったのか半分以上が工事用のフェンスに覆われていました。まだ募金集めをしているで、あれは崩落防止用の柵なのかも知れません……
 そんなテレビで見た、おばちゃん住職さんを見かけましたが、あいさつにも答えてくれずイッパイで頑張っているような印象でした。
 ただ、この日は別の場所でも女性住職さんが自転車で走っているのを見かけたので、そんなお日柄だったのかもしれません……

大雨でも「いらっしゃーい!」──長谷寺

2007.07.14
【奈良県】

 長谷寺(Map)


 台風襲来の前日でしたが、3連休で予定を組んであったもんでレンタカーを借りて決行しました。ちょうど着いたころ土砂降りでした。
 事前のもくろみとして、この屋根付きの「登廊(のぼりろう)」があるから何とか見られるのではないか、の見込み通りというか、それがなければとても歩けない雨でした。
 ここは「長谷観音」として広まった観音信仰の根本像が納められています。鎌倉の「長谷観音」もここに倣ったものだそうです。
 観音様が祀られる本堂は、奈良では大仏殿に次ぐ大きさの木造建造物だそうです。本当に立派な建物で、正面には舞台(清水ほどではないが)もあり、2月には「だだおし」という東大寺二月堂の「お水取り」と同じ「修二会(しゅにえ)」という松明(たいまつ)を手に駆け回る行事があるそうです。


 「花の御寺」と呼ばれるそうで、今回はアジサイでしたが、牡丹と桜が有名だそうです。春の写真を見ましたが、吉野の桜のように緑とのコントラストが見事で、街中などの公園一面に咲くのとは違って「山の桜」という趣が、お花見の乱痴気騒ぎとは一線を画しているように感じられ、落ち着いた空気の中で眺める桜もきっといいのだろうなあ、とも。
 でも、きっと大勢繰り出すのでしょうから、実際はイメージからはほど遠いものとも思われます……
 右の写真は本堂で、奧の出口との中央右手に観音様があるのですが、そこに向かってお祈りしている人がいたらとても絵になると思うのですが、ちょうど誰もいませんでした。とっても好きな雰囲気をたたえる場所で、雨が降っていて外を歩き回れないこともありますが、本堂周辺をグルグルと2回りくらいしていました。


 この五重塔周辺の紅葉も素晴らしそうですが、この雨に洗われた景色も悪くないでしょ? と自分で慰めておりました。
 若いお坊さんたちが、何か荷物を持って山を降りようと支度をしていて「雨がスゴイから、回廊から帰ろう」と繰り返しておりました。わたしは嫌いじゃないです……