2008年6月2日月曜日

古墳を歩こう──巻向(纒向)

2008.5.27
【奈良県】

 巻向(纒向)(まきむく)(Map)

 何だかテレビの「タモリ倶楽部」のようなタイトルになっています。
 特に古墳好きでもないのにこのを訪れたいと思ったのは、卑弥呼の墓ではないかと現在最も熱い視線を浴びている「箸墓(はしはか)古墳」を見ておきたい、その一念からです。
 知識も無いんだから見たって分かりゃしないとは思うものの、何か感じるかも知れないと……
 以前、この巻向駅の乗降客が多いと感じたのは、きっとここを目指していたんだと思われます。
 山の辺の道が近くにあることからも、ご想像通りの田園風景が広がっています。

 右写真は「纒向(まきむく)石塚古墳:纒向古墳群では最古の古墳の可能性がある。古墳時代前期初頭(3世紀中頃)の見解も。また、前方後円墳成立期の古墳として注目されている(桜井市HPより)」(古くは巻向を纒向と書いたそう)で、古墳らしい丘に見えませんか?
 ──発掘調査もしたわけですから見てくれは後からの演出なのでしょうか。

 3枚組上写真は「勝山古墳:纒向型前方後円墳の一つで、箸墓古墳より古い古墳になる可能性も指摘されている(桜井市HPより)」で、池は再現されたようです。

 3枚組中写真は「矢塚古墳:現状では円墳に見えるが、前方後円墳の可能性もある(桜井市HPより)」で、畑と学校に囲まれています。

 3枚組下写真の「東田(ひがいだ)大塚古墳:形は帆立貝式とも考えられるが不明(桜井市HPより)」は、古墳の上にも作物が植えられていて、生け花の鉢のような様相です。

 と、駆け足で4つの古墳を紹介しましたが、どこも確かなことは分かっていないというのが現状のようです。



 で、本日のメインであります「箸墓古墳」(下写真)です。
 中央の谷部分の右側が前方後円墳の「前方」にあたり、左側が「後円」になります。


 卑弥呼の没年は248年頃とされており、最近の調査により古墳の築造時期もその頃とする結果が得られているそうです。
 しかしそのより所とされるものは「その時代にこの規模の古墳ならば国王クラス」「各地にここの形式を模した古墳が点在する」「他の地方から伝わったと見られる土器が発掘された」などの状況証拠しかないようで、文献資料としても「後円部の規模が『魏志倭人伝』にある「百余歩」(約150m)」に近い、というものだそうです。
 国の調査により(中をひそかに調べたのだろうか?)現在ここは第七代孝霊天皇の皇女、倭迹迹日百襲姫命大市墓(やまとととひももそひめのみことおおいちのはか)として管理されています(倭迹迹日百襲姫命は『日本書紀』で、崇神天皇の祖父孝元天皇の姉妹とされる)。
 よくぞ調べて特定した(?)ものだと感心と言うか、呆れ気味です……
 右写真はその宮内庁の施設(前方の底辺部分にあります)。
 まあ、真偽についてはともかく(この表現だけでもお叱りを受けそう)、戦時中は前述の石塚古墳の頂上を削って砲台を作ったと聞きますから、そういうバカげたことから古墳を守るためであれば、未来への投資と研究を続けていただきたいと思います。


 上写真右側が三輪山(Map)で、山の辺の道がふもとを通り、日本最古の神社と称される大神神社(おおみわじんじゃ)がある地域になります。三輪山を拝む古神道(原始神道)の形態を残し自然崇拝のアニミズム的な特徴があるので、その歴史は縄文・弥生時代までさかのぼると考えられているそうです。
 そんな点を踏まえて「太陽の道:北緯34度32分のライン」の説が唱えられているとすれば、府に落ちる部分はあると思います(この付近もその線上近くにあるそうです)。
 古代の人々は、そんな天体を元にした「まつりごと」を行っていたようですが、時代にとらわれず純粋であろうとした故に、ここ大和や奈良は、近畿だけではなく日本というくくりでの「まつりごと」が必要とされた時の政府から、徐々に切り離されていったのではないでしょうか。
 そして、神話に不可欠である伊勢だけをうまく取り込んで、大きな国の民の心をまとめる支柱として育てていったのではないか、とも思われます。
 ──これはまるっきりわたしの勝手な考えです。

 そんな話しはどうあれ、たしかにここの纒向古墳群も三輪山を意識して築造されているように思われます(上下写真2枚はホケノ山古墳にて)。


 ここホケノ山古墳から奈良盆地を望んだ時の気持ちというのは、ちょっと他の場所では感じることのできない印象がありました。
 確かに、平安京遷都(京都:794年)から150年前に飛鳥(板蓋宮:いたぶきのみや)での大化の改新(645年)があり、またそこから数百年さかのぼった古墳時代(卑弥呼没248年頃)の遺跡になるわけですから、ここからの景色を眺めている時、自分自身の意識のタイムスケールが確実に変わっていることに気付かされます。
 とても手などは届かない時間を隔てた文化であり、自分のルーツでは無いとしても、大和もしくは邪馬台国(かも知れない)と言われる場所で生活していた市井の人への思いをはせてしまいます。
 彼らも同じ山々や、田園風景を眺めていたのだろうか。そこに何を感じて、何を考えていたのだろうか?
 そこにはもしかしたら卑弥呼も含まれていたかも知れません。
 触れたりできる実感もまるで無いのですが、そんな「もやもや」とした気持ちで景色を眺めながら、何かこの場所での印象なり考えたことなどを残したいと思うのですが、結局何一つまとまるものはありませんでした。
 あまりにも遙か過ぎて、手がかりにできるものが無く、開いたままの心を閉じるきっかけをつかむことができません。
 そこまで「もやもや」したままだと、この土地とはまるで関係なく自身と対峙(たいじ)し始めてしまいます。(下写真箸墓古墳)


 京都では「瞑想ができる」などと申しておりましたが、奈良では自身の「探求ができる」のかも知れないと思いましたが、しかし接点が何もありません。
 知識としては教科書から学んだものだけで、そこに書かれていなかった事象への関心の発展方法がどうも浮かんできません。
 これで奈良は5回目の訪問になりますが、どうも「もやもや」したものはそのまま霧散していきそうです。
 ──きっと、短歌などを好きになったりできないことが敗因かも知れません(だって貴族好きじゃありませんから!)。

 この土地は、刺激などを「外に発する」のではなく、他から押し寄せてきたものを受け止め「昇華」させるような土壌が広がっているのではないか、と思われます。


 上写真は天理にある天理教関連施設で、以前JR桜井線の車窓から町並みがちょっと異様に見えたので、一度は歩いてみたいと思っていました。
 町を歩いていると「法被(はっぴ)を着けぬ者は異教徒なり」と言われているようで、自身が異物であるような感覚にさせられるところです。
 教義についても少し調べてみましたが「陽気ぐらし」とあり、表向きからは本質が見えてこない印象がありよく分かりませんでした。というか、関心がそこで止まりました。
 市庁舎の屋根が尖っているのはおかしいだろう、と思って調べてみると、Wikipediaには
 「天理市は日本では唯一の宗教名が地方自治体名になっている宗教都市である。宗教法人は非課税であるが、天理市へ特に使用目的を指図していない形で毎年寄付を行っている」
 とあり、納得なんですが……
 しかし、写真にもあるような煙突が町中にいくつも立っていて、それだけでも異様です。これは何のためにあるのだろうか?
 大きさ的には工場もしくはゴミ焼却場程度ではないだろうか、銭湯のものよりはるかに大きいと思われます。
 この件に関してはどうも腰が引けてる感じなので、この辺で……


 P.S. 今回の写真は、ちょっと面白くなかったかも知れませんが、緑が多くて目には優しかったのでは? と思っております……
 今週は、東京へ部屋探しに出かけるので一回休みの予定です。

2007年11月23日金曜日

卑弥呼の里?──山の辺の道

2007.11.23
【奈良県】

 山の辺の道(Map)


 「山の辺の道」とは、日本の史実に最初に登場した最も古い名を残す道だそうで、奈良盆地の東端を山裾に沿って続く曲がりくねった「里道」(印象から勝手に付けた名前)です。
 なぜこの道が史実に登場するほど重要な道なのかと考えたとき、平坦な奈良盆地は以前一面の湿地帯(もしくは湖)だったのではないか、との話しにとても説得力を感じました。
 平坦な盆地を眺めながら「ここが湖だったら、その水辺をたどるように歩いただろう」こと納得しましたし、だとすれば天香具山(あまのかぐやま)などは湖に浮かんだ小島だったわけで、歩いて行ける場所ではなかったとすればさぞかし密会に適した地だったことと、勝手な思いをはせておりました。
 「万葉集の里」といわれ道沿いには和歌の歌碑が数多くあり、柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)などはいくつもあったりします(その名前を習ったのは中学・高校?)。
 上写真左下は額田王(ぬかたのおおきみ←耳にしたことありますよね?)の歌碑ですが、ままいい年したおっさんも「何て書いてあるか読めないや」ですから、そういう存在ということで仕方ないのではないでしょうか。

 本日歩いた桜井市には、最古と言われる「古墳」「神社(古神道)」や「古代の市場(海柘榴市:つばいち)」「仏教伝来の地」などが伝えられる大和文化発祥の地であり、邪馬台国の最右翼とされています。
 そういうものばかりに触れたからでしょうか、どうもここはわたしのルーツとは違うという印象を今回感じました。
 現在のわたしの現実につながらないと感じるのは、思い入れが出来ない程に遠い時間的距離感なのか、どこかで聖域を守ろうとしている国家の制約(天皇系譜研究への慎重さ)のせいなのか?
 説明は理解できるけれど実感として自分の実にならないと言うか、共感できる部分を自分は持ち合わせていないと言うのか、一線を画されているような気がしてなりませんでした。
 きっとこちらの気の持ちようなのでしょうが、どうも神話の世界に近いと感じてしてしまうのがいけないようです。
 奈良盆地の田園風景には、他の土地で感じる以上に様々な「勝手な空想?(イマジネーションの飛躍)」をかき立てられる印象があるのですが、それがかけ離れているのですよきっと……

 上記の説の裏付けとして、水辺を迂回する道であれば無用な登り降りはしないように、この道にも大きな起伏はありません。
 それゆえ、おばちゃんたちにも絶好の散策コースのようで、天気に恵まれた連休ですし、多くのグループが大騒ぎしておりました。
 道ばたには無人の露店が数多く出ており、100円均一で取れたての果実や野菜が並べられています。
 それを見ては黙ってられない本能でしょうか、ビニール袋を両手にぶら下げて「あそこでも買っちゃったわよ」の大はしゃぎの声が、あちらこちらから聞こえてきます。
 買うのはいいけど、それ持ってハイキングするのおばちゃん?
 なんて大きなお世話だったようで、どうもそういう「お買い物スポット」があるらしく、それ以外の場所ではパッタリ姿を見かけなくなりましたから、さすがおばちゃん! です。


 そんな喧騒から逃れると(おばちゃんがいなくなったの意。同時に若い娘らも消えます)急に人も減り、タッタカ歩くことが目的のハイキングチームと、妙なカップル(分かります?)が歩く程度の人影少ない里道になります。そんな道をおっさんがひとりで歩いているわけですから、何と思われているか。
 でも、そんなところだからこういう景色もあるわけです。
 上下写真で言いたいこと伝わると思っているのですが……
 下写真中程は耳成山(みみなしやま)──万葉集の里なので「耳なし法一」(平家物語?)よりは古いことになります。のっぺりとした山なので、特徴の無い山を人の顔に例えた命名との伝えがあるそうです。


 今回は「奈良の秋の風景」のイメージに近い絵が撮れたのではないかと思っています。
 前回訪れた7月頃に企画し始め、涼しくなってから行こうと考えていたのですが、季節がちょうど良かったようです。
 それにしても奈良に来ると歩いちゃうんだよなぁ、4時間くらいブラブラしてました。
 家から往復4時間掛かりましたし、帰りの電車ではガァーガァー寝てました。
 ──帰りの近鉄電車の中でわたしは合計40分ほど寝ていたのですが、前に座っていた3人家族はずっと起きていたようで(小学生程度の男の子が元気で)「結構長いわね」「でも、2時間は乗ってないよ」とケロッとしていました(吉野の方へ行ったようです)。もう、体力の無さを実感です……
 下写真は金屋の石仏(左:弥勒と右:釈迦が並んでいるのは実はおかしいそうです。勉強しておきます)。


 本日のスタート地点の柳本駅前に「卑弥呼の里」の案内。
 「オッ、何かあるのかな?」なんて思うわたしがアホやねん。
 そんなもんあったら「証明されてません」と研究者から怒られますがな! 
 まあ「イッシー いるかな?」(古いねぇ〜:鹿児島の池田湖には、恐竜のうわさを元に立てられた看板がありました)のように責められない気もしますが。
 ──イッシーと一緒にしたら怒られるかなぁ?

2007年7月16日月曜日

考えると眠れなくなっちゃう──五新線跡、五條新町

2007.07.15
【奈良県】

 五新線跡(Map)


 五條新町に残る、五新線(ごしんせん)の跡地に残された構造物です。
 五新線とは、五條と和歌山県新宮を結ぶ路線として計画され、戦前に着工し戦争による中断を経て継続されたものの、1982年に工事が凍結された未完路線です。
 まだ道路が整備されていない時代の交通手段の確保と、奈良・和歌山の山林からの材木を運び出すことを目的に計画されたようです。
 五條から新宮へ向かう十津川街道に行かれた方はお分かりと思いますが、ずーーっと険しい山が続くのでその線路もトンネルと鉄橋ばかりと思われます(全貌は見てません)。
 現在その鉄道用に整備された敷地は、バス専用道として活用されているそうです。その様子はちょっと古いですが、映画『萌の朱雀』で触れられています(わたしはそれで知りました)。
 本当に平地のない地域で、昔は土地の面積で一律に課税されていた年貢を、嘆願して免除してもらったというくらいの厳しい土地柄です。
 そこに光が差すと思われた鉄道建設が、結局頓挫してしまうにあたっての人々の落胆は計り知れないと思われます。
 厳しいからこそ、神聖な場所として熊野古道が残されていることは、やはり行ってみないと理解できないと思います。


 下の写真は、五新線(左の道)が現在のJR和歌山線(右が線路)から分岐していたと思われる地点。
 「へぇー、だから何なの?」という、マニアックな写真ですが、この真ん中にある木は誰かが思いを込めて植えたのではないか、という気がしています……



 五條新町(Map)


 明治維新の導火線とも言われている「天誅組(てんちゅうぐみ)の変」は、五條にあった代官所襲撃から始まったそうです。
 先陣を切る者とは、どんなところでも血気盛んで目立ちたがりと決まってますが、彼らはちょっと惨めだったようです。
 天皇の行幸を待ち受けるべく、代官所を占領し天皇直轄地の宣言をした翌日に政変が起こり、彼らは逆賊とされ討ち果たされたそうです。
 紀伊半島周辺は古くから天皇とのつながりがあり、逃げ込むならこの辺りと決めていたような気もします。年貢を免除してるんだから、きっと守ってくれるとの思いもあったのでしょうか。


 ここも古い町並みが残るところなのですが、前出の今井町に比べると規模ではかないませんが、フレンドリー(自由さ)な印象があります。門徒の町ではない開放感、とでも言うのでしょうか。
 門の中がとても端正に整えられているお寺(上)や、町中にしては結構大きな酒屋(下)があったり、いい加減で歩いていて不安になるような狭い路地があったりと、散策には楽しい街だと思います(すぐ裏には大きな吉野川も流れています)。


 下の場所、わたしは「あっ、きっと何かの映画かテレビで見た気がする」と思ったのですが、思い出せずにいます。
 心当たりの方がいらしたら、ぜひご一報下さい。
 どこで見たんだろう〜、と考え出すと眠れなくなっちゃうんですよ……


 今回の奈良紀行はこれで終了です。
 来週は夏休みで、岡山〜鳥取へ行ってきますので、一週間お休みになります。
 休み明けをお楽しみに!(だから、自分だけだって)

姓・苗字のルーツ──藤原京跡、談山神社

2007.07.15
【奈良県】

 藤原京跡(Map)


 飛鳥の宮から移り、日本で最初の条坊制(南北を条で、東西を坊で仕切る碁盤の目)を布いた都城(とじょう)だそうです。
 発掘現場写真の後方(手前の低い山)の、天香具山(あまのかぐやま)の奧まで含まれたそうですから、かなり広かったようです。
 和歌に関心のない者でも、天香具山の語感は耳に残っており、その響きにロマンチックなものを感じていしまうのは何故なのでしょう?
 都の北側には耳成山、西に畝傍山(うねび)というランドマーク的な山はあるのですが、ちょっと急峻で女性が登るには難儀な山に思えます。それらの山とは違い、なだらかな丘のような天香具山には、その地形を生かした何らかのデートスポットがあって、それを口説き文句に使った歌が数多く読まれたのではないか? だなんて思ったのですが、きっと違うよね……


 藤原京と、藤原氏の名は、昔のこの土地の名前に由来するそうです。
 この都は何と遷都から16年で次の平城京に都の座を譲ったそうです。
 気まぐれにもほどがあると言うか、作らされた人間にしたらやってられないだろうなあ、と思いません?
 その後、焼失したそうです。燃やしたくなったヤツはきっといたと思いますもの……


 談山神社(たんざん)(Map)


 言い伝えによるとここ談山(かたらいやま)で、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ:ATOKで変換されません。限界?)と藤原鎌足(ふじわらのかまたり)が、大化の改新(ハイ君、それは何年?)の謀議を図ったとされています。
 そんな縁から、鎌足の死後に息子がこの地に十三重塔を建立したのが始まりだそうです。
 何と、その十三重塔が現在修復中で見ることができませんでした。ショック……(ちゃんと調べてから行こうね!)
 ──絵が見たい方はhttp://www.tanzan.or.jp/へ。
 日本の苗字の発祥は、源氏・平氏・藤原氏・橘氏及び菅原氏に集約されるとのことです。
 この神社に「藤原氏ゆかりの苗字」という印刷物があり、それには藤原氏から生まれたとされる苗字の一覧が掲載されています。
 まあ、由緒を自慢したいのでしょうが、対象を限定することは広がりをあきらめることになると思うのですが。
 ちなみに、わたしの苗字はありませんでした。


【中等日本史】のおさらいです。
 先ほど登場した中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)は、友好国の百済(朝鮮)の救済に失敗し、奈良を離れ現在の大津市付近に近江朝を開き、天智天皇となります。その子どもが大友皇子で、滋賀県「瀬田の唐橋」に登場しました。
 前回同様、今回もピンと来てませんでしたが、本を読んでイマジネーションを広げる楽しみ方だけではなく、自分の足で歩いてリンクさせていくことの醍醐味ってのも感じました。
 単なる自己満足なんですけどね……

台風去って、お日柄も良く?──橿原神宮、今井町

2007.07.15
【奈良県】

 橿原神宮(Map)


 台風が明け方に通り過ぎ(計画通り?)、大きな支障もなく行動できました。
 本日はお日柄がいいのか、泊まっていたホテルでも、ここ橿原神宮(かしはらじんぐう)でも結婚式に参加する人たちを見かけました。とにかく、雨が上がって何よりです。
 ここは神武天皇(初代)を祀るところで、何だか存在感があるように感じて気になっていたのですが、単なる大きな神宮(明治神宮より狭い)でした。
 明治23年の建立とのことなので、当時の国威発揚政策の一環なのではないでしょうか。


 今井町(Map)

 先々週の「アド街ック天国」の「懐かしい風景が残る街」で1位になったところです。
 本当見事に街全体がタイムスリップしたような町並みが残されていて、確かにこんな場所は他には見たこと無い貴重な町です。
 でもここでは、人々が普通の生活をしているわけで(観光用に保存されているわけではない)、確かに町並み保存会のようなものもあり、観光用に商売している人もいますが基本的に生活空間なわけですから、何だかあまり土足でズカズカ入り込むのは失礼な気がしてくる町でもあります。
 ここは、一向宗(本願寺派)が築いた城塞都市だそうで、周囲の堀は軍事用だったそうです(どうも一向宗=武闘派のイメージがついて回る)。その後、商業都市として繁栄して「今井札」という独自の紙幣が流通したほどだそうです。




  その中心となったのが「称念寺」(右写真)で、町の支えとなってきたお寺さんです。
 「新日本紀行 ふたたび」という番組で見たのですが、壁も傾くお寺の修復よりも町の家々の修理を優先させる住職の姿勢で、お寺はつっかえ棒だらけのボロ家になっているとのこと。そこに追い打ちで、住職さんが倒れて奥さんが住職をやっているとのこと。
 現在は、工事のメドが立ったのか半分以上が工事用のフェンスに覆われていました。まだ募金集めをしているで、あれは崩落防止用の柵なのかも知れません……
 そんなテレビで見た、おばちゃん住職さんを見かけましたが、あいさつにも答えてくれずイッパイで頑張っているような印象でした。
 ただ、この日は別の場所でも女性住職さんが自転車で走っているのを見かけたので、そんなお日柄だったのかもしれません……

大雨でも「いらっしゃーい!」──長谷寺

2007.07.14
【奈良県】

 長谷寺(Map)


 台風襲来の前日でしたが、3連休で予定を組んであったもんでレンタカーを借りて決行しました。ちょうど着いたころ土砂降りでした。
 事前のもくろみとして、この屋根付きの「登廊(のぼりろう)」があるから何とか見られるのではないか、の見込み通りというか、それがなければとても歩けない雨でした。
 ここは「長谷観音」として広まった観音信仰の根本像が納められています。鎌倉の「長谷観音」もここに倣ったものだそうです。
 観音様が祀られる本堂は、奈良では大仏殿に次ぐ大きさの木造建造物だそうです。本当に立派な建物で、正面には舞台(清水ほどではないが)もあり、2月には「だだおし」という東大寺二月堂の「お水取り」と同じ「修二会(しゅにえ)」という松明(たいまつ)を手に駆け回る行事があるそうです。


 「花の御寺」と呼ばれるそうで、今回はアジサイでしたが、牡丹と桜が有名だそうです。春の写真を見ましたが、吉野の桜のように緑とのコントラストが見事で、街中などの公園一面に咲くのとは違って「山の桜」という趣が、お花見の乱痴気騒ぎとは一線を画しているように感じられ、落ち着いた空気の中で眺める桜もきっといいのだろうなあ、とも。
 でも、きっと大勢繰り出すのでしょうから、実際はイメージからはほど遠いものとも思われます……
 右の写真は本堂で、奧の出口との中央右手に観音様があるのですが、そこに向かってお祈りしている人がいたらとても絵になると思うのですが、ちょうど誰もいませんでした。とっても好きな雰囲気をたたえる場所で、雨が降っていて外を歩き回れないこともありますが、本堂周辺をグルグルと2回りくらいしていました。


 この五重塔周辺の紅葉も素晴らしそうですが、この雨に洗われた景色も悪くないでしょ? と自分で慰めておりました。
 若いお坊さんたちが、何か荷物を持って山を降りようと支度をしていて「雨がスゴイから、回廊から帰ろう」と繰り返しておりました。わたしは嫌いじゃないです……












2007年3月5日月曜日

墓もあばかれる抗争の時代
  ――飛鳥(明日香村)3

2007.02.11
 石舞台 飛鳥(明日香村)─3—奈良県


 「古墳時代」「飛鳥時代」とも、まだ政治の基盤はゆらいでいてとても物騒な時代だったようです。だから、都をあちこち移動して身を守っていたのではないか、とも思えます。
 そんな時代に権力をふるった蘇我氏の墓(蘇我馬子)と言われれば、こんな姿もある程度理解できます。
 大きなな古墳では、丘のような盛り土の中に石棺という部屋が設けられ、その中に遺骨や装飾品が並べられています(高松塚古墳のイメージ)。その石棺が巨石で造られていて、周りの盛り土がはがされて裸の状態にされたのがこの石舞台だと言えば分かりやすいでしょうか。
 金品を奪うなら、ねらい目となる石棺だけをこじ開けたでしょうが、ここの有様は盗掘とは意味が違うと思われます。
 埋葬者に対して相当恨みをもった人物が「石の文化」を逆に利用して、末代までも笑いものにしてやろうというような魂胆が感じられます。しかし、それは裏目に働き、現在の観光名所を作り上げることになりました。
 同様に、当時の権力争いで流された多くの血のおかげで「日本」という国の形が出来上がってきたのでしょう。
 そのおかげで「おだやかに暮らしています」とずっと言い続けられれば、と思います。

P.S. 今回の斑鳩、飛鳥はとても楽しめました。史跡を巡るというよりもハイキングの休憩場所に、何やらいわれのある大きな石があった、などと言ったら怒られそうですが……
 とてもいい散歩道を見つけたという印象なので、また是非にと思っています。