2007年3月5日月曜日

墓もあばかれる抗争の時代
  ――飛鳥(明日香村)3

2007.02.11
 石舞台 飛鳥(明日香村)─3—奈良県


 「古墳時代」「飛鳥時代」とも、まだ政治の基盤はゆらいでいてとても物騒な時代だったようです。だから、都をあちこち移動して身を守っていたのではないか、とも思えます。
 そんな時代に権力をふるった蘇我氏の墓(蘇我馬子)と言われれば、こんな姿もある程度理解できます。
 大きなな古墳では、丘のような盛り土の中に石棺という部屋が設けられ、その中に遺骨や装飾品が並べられています(高松塚古墳のイメージ)。その石棺が巨石で造られていて、周りの盛り土がはがされて裸の状態にされたのがこの石舞台だと言えば分かりやすいでしょうか。
 金品を奪うなら、ねらい目となる石棺だけをこじ開けたでしょうが、ここの有様は盗掘とは意味が違うと思われます。
 埋葬者に対して相当恨みをもった人物が「石の文化」を逆に利用して、末代までも笑いものにしてやろうというような魂胆が感じられます。しかし、それは裏目に働き、現在の観光名所を作り上げることになりました。
 同様に、当時の権力争いで流された多くの血のおかげで「日本」という国の形が出来上がってきたのでしょう。
 そのおかげで「おだやかに暮らしています」とずっと言い続けられれば、と思います。

P.S. 今回の斑鳩、飛鳥はとても楽しめました。史跡を巡るというよりもハイキングの休憩場所に、何やらいわれのある大きな石があった、などと言ったら怒られそうですが……
 とてもいい散歩道を見つけたという印象なので、また是非にと思っています。

石の文化――飛鳥(明日香村)2

2007.02.11
 飛鳥(明日香村)―2—奈良県

左:酒船石遺跡「亀形石造物」、右:同「酒船石」

左上:二面石、右上:亀石、左下:鬼の俎、右下:鬼の雪隠

 石に刻む思いとはどんなものなのでしょう?
 身近な例だとお墓に先祖の名を刻んでいます。そこに込められた思いとは、感謝の思いを忘れないため、次の世代に伝えるため…… それはきっと自分の死後も残ります。でも、残ってしまったもの(石)には本人の意志とは関係なく、様々な注釈が付けられたりするのでしょう。
 では、上の写真の石に込められた思いとは、どう解釈したらいいのでしょうか?
 作者が石にどんな思いを刻みたかったのかを想像しながら、見たそのままを感じればいいのではないでしょうか。
 時代も古いので、なかなかとっかかりも掴みにくいとは思いますが、飛鳥を歩いているうちに各人にとってのヒントは見つかると思います。それが「次に来た時、どんな違った見方ができるだろうか?」と思えるところがこの場所の魅力なのではないかと思います。
 これがきっと楽しいのですよ!

倭から日本へ――飛鳥(明日香村)1

2007.02.11 飛鳥(明日香村)—奈良県


 国の名を語るということは、誰かが主権を握ったということなのでしょう。聖徳太子? 蘇我氏?
 いずれにせよ「日本」の歴史は飛鳥(現在の明日香村周辺に飛鳥という主要な地名はないらしい)で動き始めたといえるのでしょう。
 そしてここには、残された史料の裏付けとなる遺構が数多く残されていることで知られています。ちょうど発掘調査の現地説明会があり、驚いたのが「第157次調査」という数字です。ものすごい時間と労力が注がれていて、そこに集まった見学者の多いこと(取材のヘリコプターが飛んでました)、その盛り上がりには驚かされました。飛鳥への知的探求心に満ちた視線の熱さを実感しました。邪馬台国の解明は難しそうですが、飛鳥の都に関しては糸口が見えているだけに、人々の関心をそそるのかも知れません。
 説明では、田んぼを数枚ずつ「ここ掘れワンワン」(失礼ですがそんな感じなんです。決められた場所だけをキッチリと掘っている)と調査しているらしく「水路跡は確認できましたが、その内側にあると推測される塀の足場は(現在の)田んぼのあぜ道辺りと思われますが、今回は調査できません」とのこと。苦労とその実態(生活の場と研究対象のかねあい)をこの目で理解してきました。
 上の写真は「645年(ムシヲコロシテ)大化の改新」の舞台となったといわれる「伝飛鳥板蓋宮跡(でんあすかいたぶきのみやあと)」ですが、これも発掘されたから見ることが出来たわけです。いままでは、後の時代に描かれたと思われる解説の絵しか思い浮かびませんでしたが、これからはこの場所が想起されると思います。これって、大きな進歩(経験)だと思います。


 上は、甘樫丘(あまがしのおか)から飛鳥方面を見た絵です。
 飛鳥を眺めていて、この一体を国が買い取ってタップリ調査をした後に「まほろばパーク」にしては? などと、考えておりました。
 地域住民の理解と相当なお金が必要でしょうけど、きっと国民は高松塚古墳での失敗を繰り返して欲しくないと思っているのではないでしょうか。お金では代えられないものがあると、きちんとした認識をしていると思います。
 国宝って、国のお金で保存するからではなく、国民のお金(寄付)や意欲(ボランティア等)で守るべき、という考え方があってもいいのではないでしょうか? 「それでは国民宝だ」なんて言いだす人がいそうですが、その方がオープンで参加しやすく、みんなが「何か力になれないだろうか?」と考えれば、面白いアイディアを提案できるのではないかと思います。
 そんなことが実現できれば、いにしえの「飛鳥人」たちへのメッセージになるかも知れません。

 P.S. 聖徳太子生誕の地に建立された橘寺の門柱の「別格 佛頭山 橘寺」の表記には驚かされました。「別格」の語源はここにあり? と思ってしまいました。

田園の中にあるお宝――法起寺

2007.02.10
 法起寺(斑鳩)—奈良県


 法隆寺の表玄関はたいそうな賑わいですが、裏側には(期待通り!)ごく普通の田園風景が広がっています。
 斑鳩神社、法輪寺周辺をめぐる農道散策(舗装されてますが)は実に楽しいものでした。そんな風景の中を目的もなく歩くのも好きですが、目的地をめざしてブラブラと歩くのも「オリエンテーリング」のようで、一興です。趣味ではありませんが「スタンプラリー」などもあったようです。
 するとその先に、ポツンと飾り気はないがしっかりと拝観料を取るお寺(法起寺)が現れます。
 この三重塔は国宝で、このお寺も世界遺産に登録されているそうです。その割には、反対側の境界(カメラ側)はバラ線(有刺鉄線)で仕切られていたりと、のどかさもあります。
 たたずまいの素朴さこの上なく、生活と共にあるお寺という親近感がとても好印象で、シャッターを押した場所は畑のあぜ道なのですが、石にペッタリと座り込み、まったりとした気分で一服しておりました。
 こういう瞬間を味わってしまうと、何が国宝で、どんな理由で世界遺産なのかはどうでもよく「この田園風景の中にあることがお宝」なのではないか? とひとりで納得していました。
 とは言え、近隣の人々だけでは支えられなかったであろうと思うと、当時から皇族関連からの援助が結構あったのかも知れません。
 そんなことを考えながら、その先のあぜ道を迷いながら歩いていました。
 30分くらい遠回りしましたが、それもまた楽しきかな……

柿食へず 鐘も鳴らねど 法隆寺――斑鳩

2007.02.10
 法隆寺—奈良県


 この建造物や宝物は大陸から指導者を招いて造ってもらったり、もしくはもたらされた「輸入品」であると思えること。
 日本文化の黎明期は大陸の物まねから始まったこと(中国ではなく朝鮮半島的であると思えること)。
 千数百年を経過した現在でもそれを体現してくれていること(日本的ではないが「日本的」の原型であると思えること)。
 そんなことを自分の目で感じることが出来たことが何よりうれしい体験でした。
 裏返せば、一面的な教育に甘んじてこれまで、日本最古=日本人が造営した最古の建造物であるとの思いこみを検証すること無く、この歳まで放置してきた知的好奇心の貧しさを改めて思い知らされました。
 この空間の「時間の流れ」には独特なゆるやかさがあって、なごむとか落ち着くという心象を包み込むようなやすらぎがあると感じられました。
 そんな空気を訪れる人々はみな体感しているのではないかと思えたのは、急いだり騒がしい人がおらず、何を求めて訪れたのかをうかがえたからだと思います。
 そんな希有な空間であることを胸に、法隆寺の大切さを考えていけたらと思います。
 たまたま、おばちゃんの団体がいなかっただけなのかなぁー?

 P.S. 「斑鳩(いかるが)」という言葉の響き、何で引かれるのでしょう?

ほこりっぽさが奈良
  ――平城京跡、唐招提寺、薬師寺

2006.11.05
 平城京跡唐招提寺薬師寺—奈良県


 昨日の喧噪を忘れ(人は多いですが、比になりません)広い野原の平城宮跡です。
 朱雀門の先に広がる大路は幅が75mだそうです。
 野原のままにしておくから(それでいいと思いますが)、そこを電車が横切ったりしています。
 このままがいいなあー、と思うのですが、ここは宮廷の中です。
 往事の様子など何も思い浮かばず(宮廷の中で何が行われていたかなど知るよしもなく)「このだだっ広さがいい!」としか思えませんでした。


 唐招提寺の金堂は、現在修復作業中のおかげで屋根を間近で見ることができました。
 この庭を見て初めて「寂び」(寂しげでも共に在るとでも言うのか)というものを感じました。実に落ち着ける場所でした。
 その線狙いだと次は斑鳩、飛鳥あたりかと思いをはせています。


 薬師寺の金堂で住職さんが説教をしている様子を目にしました。
 修学旅行の当時は、名物住職と言われた方のお話を聞かせてもらい、とても楽しかった印象があります。
 それもあって、再訪したかったのだと思います。
 前住職さんに合掌。

2007年3月3日土曜日

大きいことは?――東大寺

2006.11.04
 東大寺—奈良県


 近くに来たのだから「正倉院展にチャレンジ!」と、一泊二日で乗り込んだものの、近鉄奈良駅の「現在一時間半待ち」の案内にげんなり。それでも歩いていると、ものすごい人込みの間に見える長蛇の列。こりゃ参ったと、仕方なく「大仏様にご挨拶」と東大寺の参道へ向かってみるも「初詣かい?」の人込み。すっかり意気消沈して二月堂へ向かいました。
 駅からここまで、結構登りました。そんな印象が残っています。


 さすが大仏様、連休ということもあり京都の金閣寺をしのぐ混雑ぶり。やはり昔から、大きなモノの元には人が集まるようです。
 そそくさとあいさつを済ませ「もう来ないだろうな」とつぶやいていました。

 P.S. 決して東大寺の理念やこれまでの役割や実績について異を唱える者ではありません。
 ただ、人が多すぎます……